出典:©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable
那田蜘蛛山逃走戦
物語は十二鬼月の累の死亡とその際に見た走馬灯からはじまります。
幼少時代に、体の弱かった累は両親に大切に育てられていました。
母親に「外に出てはダメでしょ」としかられながら家にこもって暮らしていました。
ある日、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)と出会って累の人生は大きく変貌します。
「かわいそうに、私が救ってあげよう」と無惨はルイを鬼にしました。
両親は喜びませんでした。累が日の光に当たれず人を喰わなければいけないからです。累は昔素晴らしい話を聞いた。川で溺れた我が子を助けるために死んだ親がいたそうだ。
それなのに両親は俺を殺そうとする。累は両親を殺し那田蜘蛛山へ向かいました。走馬灯と共に累は両親が心中を決意した気持ちをようやく汲むことができ後悔します。強くなればなるほど消えていった記憶の果てに自分は変わり果ててしまった。
炭治郎は累を庇います。累の亡骸(なきがら)を踏みつけにする水柱・冨岡義勇に足を退けるように忠告します。
そんな累の最期の時に蟲柱・胡蝶しのぶ(こちょうしのぶ)が駆けつけます。今度は禰豆子が終われる番です。胡蝶とその弟子・栗花落カナヲが徹底して禰豆子を追い込みます。
禰豆子が殺される寸前のところで、伝達のカラスが鬼殺隊本部へ炭治郎と禰豆子を生きて運ぶようにと指示を飛ばし、禰豆子は本部により救われるのでした。
鬼のさだめ
21話では累と禰豆子という2人の鬼が鬼殺隊の柱によって滅ぼされようとします。
人間の防衛本能というか生存競争の下にある摂理のようなもので2人の運命は平等に駆逐されようとしています。
この作品を最初から観続けている人にとっては禰豆子の命は、時に人の命のように重いと感じられるでしょう。
実際鬼殺隊にとっては鬼=敵であり、そこに命の悪しき平等性はあるのだと思います。
冨岡から累を守ろうとする炭治郎と、胡蝶から禰豆子を守ろうとする冨岡には、どちらも正義の一言では語り尽くせないほどの想いがあります。
その想いを汲んでカラスを飛ばした鬼殺隊本部の本音とは如何なるものでしょう。
まとめ
基本的にこの作品に出てくる『柱』という存在は強ければ強いほどマッチョな精神構造をしているように見えます。
『柱』とは、鬼殺隊の選りすぐりの才能が集結した団体ですが、その頭領・産屋敷輝利哉(うぶやしききりや)のみが常に冷静で炭治郎と禰豆子の可能性について冨岡義勇に共感しているようです。
『残酷さの中にある頼りがい』が物語に浸透しているのが何よりの救いです。
鬼とは人を喰らわなければ生きていけない生き物です。
常人にとって鬼は恐怖の対象であり、自分たちの生態系を脅かす存在ですが、鬼殺隊にとっては(特に柱にとっては)当然滅びるものです。
滅ぼすという概念しかないため、産屋敷とは見えている幅が違うのでしょう。
炭治郎の鬼は元々人だった、という考え方はもちろん禰豆子の存在からくるものが大きいのでしょうが、その根性の強さはどんな登場人物の中でもずば抜けていると思います。
文章:S.Shinichiro